
匿名
自由なレシピが多いうどんに比べ、蕎麦はなぜ許されづらいのでしょう。私は、少ないお湯で安い乾麺を茹で、洗わずそこに麺つゆ少しと濃口醤油を入れ、白ネギとうどん屋の天かすをどさっと入れた、絶対に怒られる蕎麦が好きで、疲れた日に食べます。生姜は気分の時にちょこっと。ぬるく伸びて天かすがふやけるのもまた。
「絶対に怒られる蕎麦」というキラーワードに笑いました。たしかに絶対に怒られるうどんやラーメンは存在しなさそうですね。 相談者さんも既に気付いているような気もしますが、 「蕎麦はその繊細な香りが大事だから」 みたいなことは全く理由になってないと思います。鴨南蛮だって天もりだって結構香りだいなしです。ましてカレー南蛮に至っては何をか言わんや。 これはもう、 「蕎麦とは様式美を大事にする文化だから」 としか言いようがない気がします。その様式美が完全に成熟する前に運良くドロップされたのが鴨南蛮やカレー南蛮なのかもしれません。 蕎麦の様式美は何かと揶揄の対象にもなります。 「汁に全部つけてはいけない」 「ワサビを汁にといてはいけない」 「葱は合間につまめ」 など。 でもこれら、たしかにそうした方がおいしいんですよね(主観)。 こういうことはマナー一般同様、その食べ物を最もおいしく食べるために過去の人々が積み上げてきた集合知なんだと思います。 蕎麦の世界はそういった「お作法」も含めて様式美に満ちています。なぜうどんと違ってそんな文化が成立したかまで考察するのは難しそうですが、まあ、いろいろな偶然や時の運でそうなったのでしょう。ただ少なくとも現代において、蕎麦は半ば嗜好品であり、趣味製の高い食べ物であるということは言えると思います。 しかし逆に言えば、そういう様式美が無ければ、蕎麦の世界も時代や嗜好の変化に合わせてどんどんサイテキカがなされたのではないかと思います。 サイテキカはなされた方がいいのかどうかはまた一悶着ある議論ですが、世の中が基本的に常にサイテキカに進む中にあって、蕎麦のようなガラパゴス的世界はやっぱり大事だと僕は思います。 そう願う少数派の人々の集合的無意識が、蕎麦の様式美を頑なに守り続ける原動力として働いているのかもしれません。 エスニックにおける原理主義ともどこか似ている気がします。 そんな中にあっても、「絶対に怒られる蕎麦」は現代でも時折登場し、稀に定番化しています。「すだち蕎麦」や「牛肉ラー油つけ蕎麦」など。ラー油はともかく、すだち蕎麦は個人的に「よくぞ発明してくれた」と、考案者に足を向けて寝られません。 そういうものが厳選されて登場するのは健全だと思います。逆に、「そんなものはウチの敷居はまたがせん」と考える老舗の蕎麦屋の存在もまた尊い。 ここで富士そばを筆頭とする立ち食いそばの話まで始めてしまうと収拾がつかなくなりそうですが、ここでは「絶対に怒られる蕎麦」が度々登場します。ただしそれがネットでバズるのは、蕎麦の世界の様式美が世間で暗黙知として共有されているからこそでもあると思います。そしてそれはネタとして消費され、定番化までは至りません。 個人的に「フライドポテトそば」は、立ち食いの世界限定で定番化しても良いのではと思っています。いやむしろ老舗系でもお願いしたい。「ポテト花巻」なんておいしそうじゃないですか? 乾麺の蕎麦は僕も好きです。最近さすがに手打ちと乾麺の違いくらいはわかるようになりましたが、どっちもうまいもんはうまいです。 先日、イナダ式納豆蕎麦を発明しました。あまりにおいしく、今後も作り続けること確定です。大根おろしを汁ごと、納豆、葱、卵に醤油を垂らしてグルグルかき混ぜただけのやつで乾麺をズビズバ食べる。カエシもダシも不要。鰹節とか胡麻とか足すともっと一般ウケしそうですが、麺つゆやダシ醤油はナシですね。それが僕の様式美です。